この腕の痣が薄れる頃には、薫様にお仕えする生活は随分と慣れていた。毎朝、日の昇る頃に南雲の御屋敷へと向かい薫様に朝餉を運ぶ。彼はいつも私が着く頃には身支度を完璧に整えていて、私に出来ることと言ったら朝餉や夕餉の準備と寝具の支度、それと硯や書物の準備くらいだ。薫様は私が彼の部屋にいることを嫌い、用がない時はすぐに追い出されてしまう。部屋の外に待機していても、気が散るから帰れと叱られてしまう。


「夕餉のお時間でございます」
「入れ」


 日が落ちた頃、いつも通り薫様に夕餉の載った膳を運ぶと彼は相も変わらず机に向かっていた。灯りがぼんやりと室内を照らし、闇を掻き消す。橙の灯りに照らされた薫様の顔はやはり子供らしからぬ気色で私は少しだけ肩を落とした。


「失礼します」


 そう言って、彼の膳から少しだけ食事を口に運ぶ。毒見だ。長からは毒見までは命じられていなかったが、私が薫様にお仕えする前に、風の噂で薫様の御命を狙う不届き者がいることを耳にした。南雲は薫様に友好的ではないし、邪魔になるなら殺してしまえと言う者もいる。用心に越したことはない。


「問題ありません」


 全ての食事に手をつけて、新しい箸を薫様に手渡す。白米や汁物、おかずからは変な味や臭いはしかなかった。この時代、無味無香の毒があるとは聞いたことがない。薫様のお食事が終わるまで外で待機を命じられているので、退席しようと音を立てずに立ち上がると、かくんと足の力が抜け座り込んでしまった。喉が焼ける様に熱い。胸を抑え床に倒れこむと火照った体に板張りの床がひんやりと冷たかった。


「……だ、…」


 必死に重い口を開くが呂律が回らず舌足らずな警告の言葉。言葉になっていなくても私の様子から、敏い薫様は食事に毒が盛られていたことを分かってくれるだろう。
薫様は、誰か人を呼んでくれるだろうか。嫌われているみたいだし、このまま放置されても仕方がないかもしれない。彼ら鬼にとっては人間である私の命など、羽虫程度のものだ。
 落ちていく瞼に従いそのまま意識を手放そうとすると、強く頬を張られた。


「――――――」


 重い瞼を持ち上げると目の前に薫様がいる。いつも通りの無表情だけど、珍しく彼の視線は私を捉えていた。薫様が私を抱き抱え、口を開かせ水を流し込む。今度は背中を丸める様な体制に体を起こされ――吐かせるよ――短い断りの言葉と共に喉に指を押し込まれた。途端、襲う吐き気に抗えず床に戻してしまう。言葉にならない声を上げながら生理的な涙に顔を歪めると、躊躇う様な覚束ない手付きで、だけどとても優しく背中を擦られた。






 口を濯いで残った水を吐かせると女は再び意識を失った。体温が高く、呼吸が荒い。素人目にも危険だと分る状態だった。人を呼び、彼女の手当と部屋の掃除を命じると現れた男は「!」――恐らくこの人間の名だろう――と叫び彼女を抱えて駈け出した。
 空気を入れ替える為、窓を開いて外を眺めると四半時もしない内に替えの膳を持った男鬼が部屋を掃除して夕餉を置いて立ち去る。俺は夕餉に手をつける気になれず、机に向かった。
 我ながら、人間を助けるなど――しかも、南雲に組する女だ――可笑しなことをしたものだ。窓の外の闇を眺めて独り、自嘲した。