01.赤い少年

 バン、と乱暴にドアが開き赤が駆け込んで来る。最早火曜恒例ともなりつつある襲撃者にマスターは皺の寄った顔に更に皺を寄せるが、諦めたのか何も言わずに珈琲をたてていた。
 ここは、マサラタウンの外れにある喫茶店エトワール。厳格なマスターがいれる珈琲が人気の隠れた名店で常連客が多い。私はここで先月から住み込みのバイトをさせて貰っている。


「レッドくん、どうしたの?」
さん、今日休みだろ? 一緒に森へ行こうぜ!」


 コップを拭きながら笑顔で赤い来訪者に声をかけると彼は満面の笑みで答えた。彼は空のモンスターボールを握りしめて、今日はさんのポケモンも捕まえてやるよ、と腕捲りをする。意気込んだ彼の様子にマスターは小さく鼻で笑うと、虫除けスプレーをレッドくんの頭に投げて寄越した。


「いてっ! 何するんだよ!」
「仕事の邪魔だ。とっととそいつ連れて行け」
「いってきます、マスター。ほら、レッドくん行こう?」
「謝れよー!」


 癇癪を起こすレッドくんの腕を引いて外に出る。常連客はその様子を微笑ましく笑顔で眺めていた。この店が賑やかになったのもちゃんが来てくれたおかげだねぇ。いつも珈琲に砂糖を3杯入れるおばさんが笑う。騒がしくて仕方ねぇ。マスターが眉を顰めて口の端を少しだけ持ち上げた。その迷惑そうな顔に少しだけ笑みが混じっていた事はマスターの名誉の為に伏せておこう。私は彼らに笑顔で行ってきますと言い、音を立てないようにドアを閉めた。





「ねぇねぇさん。少しは何か思い出した?」


 レッドくんが自転車を押しながら私遠慮がちに口を開く。記憶喪失。それが私の今の設定だった。
 ひと月程前、マサラの森に倒れていた私は、森の探索に来たレッドくんに見つけられて保護された。私の持ち物は大きな本一冊だけ。マサラタウンに住む人はこの文字はさっぱり読めないけど、写真で判断する限りこの本はポケモンの辞典らしい。しかも、発見された事のないポケモンまで載っているとか。
 偉い学者さんはこう言った。これはきっと、古代のポケモン辞典だ。古代文字の解読は難しいが歴史的発見になる、と。しかし私の目に映る古代のポケモン辞典の表紙には日本語でこう書かれていた。ポケモンぜんこく全キャラ大事典、と。表紙を捲ると丁寧に平仮名で友人の妹の名前が書かれている。結局、知らぬ存ぜぬを通して、唯一の手がかりと言う事でポケモン辞典を諦めて貰い(しかしきっかり図鑑解読の手伝いを約束させられてしまった)、身寄りのなかった私はマスターの店に居候と言う形に落ち着いた。


「うーん、今の所日常生活に支障はないから、別に思い出さなくてもいいかなって」
「え!? でもさ、家族に会えないのは淋しくない?」
「……大丈夫だよ。マスターもお客さんも優しいし、それにレッドくんもいるしね」


 笑い返すとレッドくんは視線を逸らして照れた様に頬を掻いた。こんないい子を騙して、住まわせて貰ってるマスターにも嘘を付いているのだと思うと罪悪感に苛まれる。
生まれ育った20年間の記憶は曖昧な幼少期を除けばしっかりと覚えているし、ここがアニメや漫画、ゲームで人気のポケットモンスターの世界だと分かっていた。だけど、数か月前の私はゲームをプレイする側の人間だったのだ。遊びに来ていた友人と妹の忘れ物を届けようと車に乗った記憶を最後に、こちらの世界に来てしまった。勿論、知り合いも戸籍もない。だから彼らの優しさに甘えるしかなかったのだ。そう、自分に言い訳をした。


さん? どうしたの?」


 罪悪感が顔に出ていたのかレッドくんが心配そうに私の手を握った。はっとして、いつも通りの笑顔でなんでもないと返す。すると彼は少し不満そうに眉を顰めた後、真剣な顔で私を見上げた。


さん、オレ、今はさんよりも小さくて頼りないかもしれないけど、絶対強くなる! 俺が強くなったら、さんの不安な事、全部話してくれよな!」


 突然の彼の宣言に一瞬口を開けたままぽかんとしてしまうが、彼の言葉が嬉しくて思わず声を上げて笑ってしまう。耳を真赤にするレッドくんの手を握り返して、私は大きく頷いた。