着なれないスーツがもごもごする、気がする。いや、こうもごもごするのは私の気持ちだ。事務所の一室を前に、もう10分も立ち尽くしている。意を決してノックする前に、ひとりでこんな局面に立ち会う事になった元凶を思い出しじとりとドアを睨んだ。
 そう、あの男。元凶は全てあの男にある。

 大学を卒業し、私が入社したのはとある芸能プロダクションだった。芸能プロダクションと言っても、勿論私は芸能人ではない。プロダクションの事務を希望して、慣れない面接を繰り返し、ようやくこちらの事務の2次募集にひっかかった。何度も不可の通知を受け、打ちひしがれていた私にとって、このプロダクションの内定通知は泣いて喜ぶ程嬉しかった。なのに何故か、事務として入社した私を待っていたのは事務員の新人研修ではなく、マネージャーの新人研修だった。
 意義を唱える暇なく、先輩のマネージャーからマネージャーとはなんたるか、アイドルとはなんたるか、芸能界とはなんたるかを教え込まれ、時には先輩に付き従い傍若無人なアイドルのお供をし、彼女達の外面の良さに泣いた3か月間。研修も終わり、そろそろ担当を決めなくちゃね、といった局面で飛び込んだ仕事。
 今、売れに売れているアイドルのマネージャー業。本来ならプロデューサーが付いている筈の少女だが、どうしてもはずせない仕事で期間限定ではあるがこの仕事が私に回ってきた。プロデューサーは人当たりも良く優しい人だが、入社して数年でめきめきとその手腕を発揮して、最近は色々なアイドルをプロデュースしているため多忙だ。

 問題は彼が、果てしなく人当たりが良い、ということである。彼にかかればわがままなアイドルなどお手の物だろう。他のアイドルがプロデューサーに抱きついているのも見たことがある。会話も全てパーフェクトなコミュニケーションに違いない。
 しかしながら、私が彼並みのコミュニケーションスキルを発揮できるか――もちろん、否だ。
 先輩マネージャーはアイドルを宥めすかし、時におだて、うまくコントロールできるようになって一人前だと言っていた。余談だが、先輩はまだその境地に辿りついていないらしい。しかし業界に入って十数年の先輩ですらたどり着いていない境地に、マネージャーのいろはのい程度しか学んでいない私にできようか。無理だ、100%無理だ。
 生まれたてのマネージャーの卵のような存在を、傍若無人なトップアイドルにぶつけてしまえばどうなるだろうか。勿論割れる。私の人生終わる。本来なら緩衝材であるプロデューサーや先輩マネージャーが間に入らなければならないのだ。

 勿論、この度の期間限定トップアイドルのマネージャーも、彼女から信頼されているプロデューサーが私を紹介して始まる筈だったのだ。緊張する初あいさつ、それも敏腕プロデューサーがいれば安心、と自分を落ち着かせていた私に、非情な電話が入ったのはつい数時間前のことだった。


「はい、です」
さん、今大丈夫?』
「あ、プロデューサー、お疲れ様です。何かご用でしょうか?」
『今日のあいさつのことなんだけど……』
「ああ良かった、私緊張して眠れなかったんですよ! 相談があるんですけど」
『ごめん! ちょっと今前の仕事が押してて』
「お忙しいですか、すみません。大丈夫です、あいさつの前に確認して頂ければ……」
『本当にごめん! あいさつ、一緒に出来ないんだ。代理の人が来ることは伝えてあるから、それで……』
「え、ええー!! だ、駄目ですよ! 無理ですよ! 早く会社に来てください! プロデューサーは、私と一緒にあいさつするんです!」
『い、行きたいのは山々なんだけど……今、沖縄なんだ……』
「沖縄ー!? な、なんなんですかそれ、私を見捨てて呑気に自分はバカンスですか!?」
『違うよ……今プロデュースしている子の撮影で……って、こんな事してる暇ない! 本当にごめん、10時に事務所でって伝えてあるから、じゃあ!』
「ちょ、プロデュ……」


 今朝の会話を思い出して更に気分が沈んできた。マネージャー補佐である薫さんからは、さらりとした謝罪文と共にアイドルの今日の日程、注意個所なども送られてきた。多忙なプロデューサーが敏腕として働けるのは、彼女の補佐も大きいらしい。日程についてわからない所も、プロデューサーにメールしたよりも彼女からの方が返信が早かったし。


「ふーぅ」


 トップアイドルの待つドアの前で、大きく深呼吸する。大丈夫! アイドルが横暴でも十代って宣言してるのに楽屋で煙草吸ってても泣かない! ……多分。
 気合を入れるようにぱしりと両頬を叩き、意を決して扉をノックした。


「はーい!」


 可愛らしい声が返ってきた。おかしい、アイドルとはカメラが回ってない時には仕事用の声ではなく、少し低めのドスの聞いた喋り方をするいきものではなかったのだろうか。
 どんがらがっしゃーん!
 続いて、何か物が倒れる音が響いた。状況確認ができず、ドアの前で立ちすくむ私に構わず、ドアががちゃりと音を立てて開く。


「……あれ?」
「……」


 ふたり、見つめ合う。トップアイドルである彼女は可愛らしい相貌をしていて、ぱちりと見開かれた目をくるくると回し不思議そうに私を見つめる。そして、何かを思いついたように「あ!」と両手をぽんと打って微笑んだ。


「もしかして、新しいアイドルの方ですか?」
「えっ」
「あれぇ? 違いました?」
「え、あっ……す、すみません。本日、マネージャーを担当させていただく事になりましたと申します」
「ああ、マネージャーさん! ごめんなさい、私勘違いしちゃって……。知ってると思いますけど、天海春香です! 今日は1日、よろしくお願いします!」


 そう言ってぺこりと頭を下げた彼女につられ、反射的に私も頭を下げる。こちらこそ、と呟きながらも、私の知っているアイドル像とはかけ離れた存在に、奇声をあげて走り回りたいくらいだった。


「マネージャーさん! どうぞ!」


 そういって部屋に招き入れた彼女の手には、こんがり焼けたクッキーが握られていた。勧められた椅子の前には、いつの間にかお茶が用意されている。
 おかしい、これはおかしい。
 そう思いながら思考を落ち着かせる為にお茶を一口含む。熱めのお茶は沸騰した思考を逆に冷ましてくれるようで、少しだけ落ち着いた気がする。すすめられたクッキーを口に含むと甘すぎず、ほのかに紅茶の香りがした。


「……おいしい」
「本当ですか! うれしい、今日は上手に焼けたんですよー!」


 再び思考が停止する。彼女の台詞から、どうやらこれが彼女の手作りであることがうかがえる。確かに、ラッピングもお店のものではなく、どこか……百均で見かけた事のある包みだ。


「これ、天海さんが作られたんですか?」
「はい、そうなんです!」
「お上手ですね」
「ありがとうございます! って、天海さんじゃなくて春香でいいですよー」
「え、しかしながら……」
さんの方が年上ですよね? あ、さんって呼んじゃっていいですか? さんの方が……」
「いえ、お気になさらずに、お好きなようにどうぞ」
「ありがとうございます! さんも、私のこと春香って呼んでくださいね!」
「わかりました、あま……春香さん」


 私が彼女の名前を呼ぶと、満面の笑みでほほ笑む。やばい、何この可愛いいきもの。人当たりが良くて料理も上手で可愛いって……こんな絵にかいたアイドルのような存在がいたのか、765プロ!


「えへへ……」
「どうかされました?」
「私、さんのことプロデューサーさんや小鳥さんから聞いてたんですよ! 新しく入ったマネージャーさん、どんな人かなあって。想像した通り、良い人で嬉しいです! あ、765プロに悪い人なんていないんですけどね!」
「……そうですね」


 悪い人、というか傍若無人な人なら1名程心当たりはあるが、色んなものを含んだ私の同意の言葉に彼女は更に笑みを深くして頷いた。


「本日の予定ですが……12時より歌番組の収録、それが終わりましたら16時より雑誌のインタビュー、その後移動して18時より新曲のレコーディングを予定しておりますが、春香さんの体調次第ではレコーディングを後日に回しても結構だそうです。最近はスケジュールも詰まっておりますので、休めるときに休んでおけ、とプロデューサーから言付かっております」
「大丈夫です! 私、元気いっぱいですから!」
「無理はなさらないでくださいね」
「はーい!」
「それでは……そろそろ移動しましょうか、春香さん」
さん、一緒に頑張りましょうね!」


きっとあなたが1番!





あとがき
 モバマスで春香さんが出なくてこのたぎる想いをぶつけてみました。
 時間軸的にはディアリースターズの後でしょうか。マネージャーさんが最初に出会った傍若無人なアイドルは伊織という設定でした。