03.Le passé

 アレンが目を覚ましたのは、クロスがふらりとどこかへ消えてから半刻ほどたった頃だ。額に乗せた氷嚢代わりのタオルを抑えながら、ゆっくりと簡素なベッドから身を起こした彼に声をかける。


「調子はどう? 痛む所はない?《
「大丈夫、です《
「そう《


 少しだけ気落ちした声色に、悟られない様に溜息を吐く。冷えたティーポットの中身を捨て、新しいものを私とアレンの二人分用意するために立ち上がった。
 イギリスの空は今日も雨模様だ。中も外もじめじめして湿っぽいたらありゃしない。


「私が……アクマが嫌い?《


 備え付けのキッチンで茶葉を新しいものに換えながら、振り向かずに声をかける。わかりません、と返って来たのは小さな声だった。


「あなたは、どうして千年伯爵の配下ではないんですか?《
「……アクマがダークマターから造られた魔導式ボディと、魂によって作られるのは知ってるよね? この体は、生前の私――の娘のものなの。中々でしょう? 自慢の娘だったんだから《


 おどける様に笑ってみせると、アレンは何かを堪える様に唇を噛んだ。

 本当に、自慢の娘だった。
 私が人間だった頃、まだ日本にも多くの人間が生き残っていた。数を増やすアクマに怯える日々ではあったが、私は娘と幸せに暮らしていた。
 そんな幸せが壊されたのは、たった一匹のアクマによってだった。まだ進化すらしていない、Lv1のアクマ。ただの人間だった私には何もできなかった。江戸にエクソシストはいない。助けてくれる人間などいない。私は絶望して死んでいった。


「次に目が覚めたのは、私を殺したアクマを造った千年伯爵の前。殺してやる、と思ったけど、私が殺したのは娘だった。今でも覚えてる、あいつが耳元で「、できあがり《って嗤ったの《


 親に子供を殺させておいて、ハッピーバースデーなんて歌われちゃ堪らないわ。
 吐き捨てる様に呟き、ティーセットをテーブルへ運ぶと、アレンは灰色の目から零れおちる涙を拭いもせず、静かに泣いていた。


「でも、悪いことばかりじゃなかったのよ。たった一つの幸運。娘は、イノセンスを……対アクマ武器持っていたの《
「――対アクマ武器を? エクソシストだったんですか?《
「適合者じゃなかったから、発動はできなかったわ。体内に保管してあったと言った方が語弊はないかもね。
 私の中のイノセンスは、少しずつ私の魔導式ボディを蝕んでいった。伯爵への絶対朊従のプログラミングと一緒にね。おかげで、生前の自我を保ててるの《


 その後、Lv2になった私はクロスの存在を知り、イノセンスの回収を依頼した。教団はイノセンスが必要で、私はこれ以上中から壊されたくなかった。
 元科学者でもあるクロスはアクマの魔導式ボディを研究したい、私は伯爵に一泡吹かせたい。単純な利害の一致。それがまさかこんなに長い付き合いになるとは思わなかった。彼はエクソシストで、私は全世界の敵、アクマだ。クロスにイノセンスを渡した後に、破壊されてもいいとも思っていたからだ。


「まぁそんなこんなで空腹はアクマで紛らわせつつ、クロスの味方というか、伯爵の敵をやってます《


 おどける様に笑うと、ベッドの際で立ち尽くしたアレンの左目が赤く染まる。


「無理に、笑わないで下さい。僕には見えます。悲しい、と泣き叫ぶあなたの魂が《
「……馬鹿みたいに優しいのね。アクマのために泣いてくれるの?《


 カップを置いて、立ち上がりアレンに手を伸ばす。彼は怯える事なく、涙を拭う私の手を受け入れた。
 強い子だ、と思う。クロスが何の意図でこの子供を拾い育てているのかは分からないが、あのものぐさが自ら弟子をとったのだ、将来千年伯爵に制裁を与えるのはもしかしたらアレンなのかもしれない。その時までに、しっかりこの子を育てる必要がある。


「――よし、アレン。明日から、腕立て百を3セットね《
「はい?《
「腕力も脚力もまだまだ。走り込みもしないと……! 実践も勿論大切だけど、戦術も大事だわ。今日は私のナイフに爆破機能があると一度見せておいたのにもかかわらず、最後はあのザマよ。アクマは進化すると色んな能力を持つから、一筋縄じゃいかなくなるわ《
「あ、あの………?《
じゃなくてコーチと呼びなさい!《


 後に、アレンは私とクロスと過ごした二年間を、デスマーチの様だったと語ることになる。