やばい。これはかなりやばい状況かもしれない。否!かもではなく明らかにやばいのだ!私は目の前でいやらしく笑う男を前に自問自答を繰り返した。
今日も相変わらず平和な1日で終わる筈だった。それが狂ったのは私が数学の課題を忘れたせいだ。学校へ取りに戻って、公共交通機関を駆使して自宅まで徒歩15分、近道の人気のないホテル街を通っていたら突然背後から無理矢理車に乗せられて、連れてこられたのはコンクリートが剥き出しの廃墟らしきビル。ちなみに気絶させられていたからここが私の家からどれくらい離れた場所かは分からなかった。どすん、と茶色く変色したソファに乱暴に落とされ、私を中心に埃が舞う。
「だな」
「人違いです」
「、だな」
低い声は問ではなく確認だった。私にとって最も喜ばしい事件の終わり方、人違いでした、の可能性も真っ先に否定される。
「そ、そういう貴方は…?」
体の震えを押し殺して問い返すと、男は小さく笑った。笑う、と言っても彼の目元は色の濃いサングラスで覆われていて、私は露出した口許だけで判断しなければならなかった。
「私か…そうだな、ミスターTと呼ばれている」
「……それで、ミスターTが私に何の用ですか?」
「大丈夫だ。
………大人しくしていれば命までは取らない」
向けられた視線に、ぞわりと背筋が凍る。反射的に小さく息を吸い込んだ瞬間、私の命はミスターTの中にあった。首もとにそっと添えられた手は手袋越しでも冷たく、私の体温を奪う。
「君は、網膜認証を知っているか?」
「…っ」
ミスターTの右手が、私の左目に延びる。網膜だって?十中八九抉られる!恐怖から身を硬くすると、ぱん、と渇いた音と共にミスターTが私から飛び退いた。
「想定外のスピードだ」
「先輩から離れるドン!」
「け、剣山くん…?」
私とミスターTの間に割り込んだのは後輩のティラノ剣山くん。彼の右手にはスクリーンの中でしかお目にかかれないような物が握られていた。ミスターTに照準を合わせ、躊躇いの欠片もなく剣山くんは引き金を引く。
「剣山くん!」
「やっぱり銃は性に合わないドン。先輩、事情は後から説明するから、取り敢えずここから逃げてほしいザウルス!」
「逃げるって…」
「悔しいけど、ミスターT相手に先輩を守りながら闘うのはオレじゃ無理ドン。アニキが向かって来てるから、下に向かうザウルス」
「よく分からないけど、分かった!剣山くん…怪我、しないでね?」
「…努力するドン」
銃を懐に仕舞い、剣山くんはぽきんと指の関節を鳴らせる。いつの間にか彼の両手には銀色の人を殴るための武器がはめられていた。
「私が行かせると思ったか」
大きく振りかぶった剣山くんの拳を軽くいなしてミスターTはドアノブに手をかける私へと距離を詰める。剣山くんがそれを追うが、眼前へと迫ったミスターTの刃が窓ガラスの割れる音と共に何かに弾かれた。一瞬の隙を付いて剣山くんがミスターTを投げ飛ばす。
「行くドン!」
彼の言葉に背を押され、弾かれた様に駆け出した。今は何が何だか状況が理解できない。でも私は剣山くんの足手まといなのだ。ただそれだけは理解できた。拉致されたり、本物の銃を見たり、ナイフをつきつけられたり、殺されそうになったり。恐怖から滲んだ涙を左手で拭う。
「外からはエドも狙ってるドン。アニキが来るまで、ここから先へは行かせないザウルス」
パン、と渇いた銃声が響いた。
(20080910/ななつき)
剣山くんは肉弾戦。
エドはライフル。
じゃあアニキの獲物は何にしましょうか?